Prelude:
3年前にワシントンDCから横田基地に越してきました。DCの友達に別れを告げたのを昨日の事のようにはっきりと覚えています。その時は「こんな素晴らしい交友関係を再び築くのは無理だろう」と感じていました。でも同時に引越に関して人事を尽くして天命を待つ事が出来たという心の平安もありました。兄弟姉妹も私達のために祈ってくれていましたから・・・そういうわけで寂しい一方で日本への引越しは神様のご計画だから、素晴らしいものが私達を待っていてくれているのだろう、という期待もあったのです。あれから3年が経ち、今度はテキサスに引越そうとしています。アメリカで住んだ事があるのは東海岸だけ、しかも次は十中八九ハワイになると思っていましたので、テキサスに決まったときは本当にビックリしました!でも3年前DCを発つ時の気持ち、プラス神様がこの3年の間下さった恵みへの感謝、プラス神様は真実なお方であるという更に強い確信、これが今わたしの心にあります。
神様はイザヤ書42章16節でこう語っています。
わたしは盲人に、彼等の知らない道を歩ませ、彼等の知らない通り道を行かせる。彼等の前で闇を光に、でこぼこの地を平らにする。これらの事をわたしがして、彼等を見捨てない。
Intro:
任意に選ばれた3000人余を対象に心理学者が行なった調査があります。質問は簡単、「何のために生きているか」でした。すると被験者の90%以上の人が何かを「待っている」と答えたそうです。家族に関するトピックを選んで言えば、結婚相手との出会い、夫婦関係が改善される事、子供が独立する事などです。
今日お話したい事は山ほどあるのですが、「待ちの状態で」主にあって喜ぶ秘訣をお話したいと思います。私の秘訣と言っても、パウロが言うように「私は既に得たのでもなく、既に完全にされているのでもありません。ただ捉えようとして、追求しているのです。」それだけなのですが、思いがかなわない、かなっていない状態で、主にあって喜ぶ事について、なにか皆さんにもお役に立つ事が分かち合えればと思っています。
My Struggle:
待つ事に反対しているわけではありません。伝道者も「天の下では何事にも定まった時期があり、全ての営みには時がある」と言っています。「待つ時」があっても良い筈です。ただこの「待つ時」に自分の心がどこにあるか気を付けないと主にあって喜ぶ妨げになりかねません。
私などは悪いケースです。まず私は計画好きです。と言うと聞こえがいいのですが、土壇場で調節するのが苦手なのです。そして自分で常にコントロールしていたいという思いがあります。ですから分からないまま待つとなると、不機嫌で不安で感謝知らずで根暗の怪獣になりそうになります!
オートバイとの接触事故と延々と続く職探しがここ1年の中で出くわした信仰を試す大きな二つの炎でした。 ねだり、ぐずり、駆けずり回り、自分を可哀想に思い、現実を否定し、その他早く明日が来るようにと思いつく限りの事をしながら、事故の解決と次の異動先の決定を待つ事も可能でした。主にあって喜ぶ暇はない、という状態です。
God’s Revelation:
感謝な事に今回完全にこの悪い波に飲み込まれる事はありませんでした。3つのキーがありました。
1。神様と過ごす時間
2。聖書を読む事
3。そして神の民との交わり
これらを通して、むしろ主にあって喜ぶ事が出来ました。それが良い事でも悪い事でも起こるかどうかも分からない将来の事を待って、今この時を耐え忍ぶのはなんと勿体ない事だろうと思うようになりました。明日になればかなうと思う夢のために今日を無駄にしてしまっているからです・・・今日という日は昨日待ち望んでいた明日だという事実に気付かない愚かさにも目が開かれました。神様は今日という日の中に沢山の宝物を隠されています。神様と一緒に楽しみ、主にあって喜ぶために・・・今日はすぐに過ぎ去ってしまいますから、今この時、主にあって喜びたいのです。
Reflection and Challenge for Sisters:
皆さんはどうですか。今を、置かれている場所を神様に感謝していますか?それとも今の状況が変わる日をひたすら待ちながら、なんとか今日という日を乗り越えていますか。
今日はもう来ています。ああだったら良かったとか、ああなればいいのにと憂うのはやめましょう。今は今あるがままです。今こうあるのは私達を愛する神様がこのように整えて下さったからです。神様の近くにいるようにしましょう。神様の愛と力を今置かれている状況の中で信じましょう。主にあって喜び、主にあって成長していく筈です。
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私の大好きな聖句の一つにルカ22:61があります。
主が振り向いてペテロを見つめられた。
ペテロは主と共に過ごし様々な御業を目にした使徒です。そのペテロがかなりの大口をたたいたにも関わらず、自分を守るために主を3度も否定しまう箇所です。
ペテロが感じたであろう恥、面目なさを、私もよく感じます。特に子育てをしていく中でそうです。自分は駄目だ!という思いに圧倒されます。そういう時にこの御言葉が非常にリアルに私の魂に触れます。私が感動するのはイエス様がペテロを「見つめている」という事実です。「見つめる」ということばを聞いてどう思いますか。誰かがあなたを「見つめる」時どんな思いが心にあるでしょう。個人差はあるかもしれませんが、相手が興味を持って真剣に考えていてくれる、その思いが伝わってきませんか。単にフワフワした温かい思いではなくて、もっと強烈で確かな思いが伝わってきます。イエス様は自分を裏切った弟子を怒って睨みはしませんでした。又軽蔑して見下げる事もしません。そうではなくて「見つめた」というのです。睨まれ軽蔑されるべき自分が、イエス様に見つめられているのに気付く時、私は自分が癒されて行くのを感じます。