光が、やみの中から輝き出よ。
(コリントU4:6)
私は30歳の時にクリスチャンになりました。ですから、今ちょうど10年ですね。私を最初に教会に連れていってくれた人は私が当時つきあっていた男性で、イエス様を信じてはいるけれど信仰と行動がまったく一致していない人でした。私は、彼に連れていかれた教会で何か「よいもの」を感じイエス様に興味を持ちましたが、そのボーイフレンドの裏表のある生き方を認めることは嫌だったので、別の教会に電話して聖書勉強を始めました。その教会のバイブル・スタディーの後で牧師先生に導かれ、イエス様を救い主として告白しました。でも、その時は本当に信じたというよりは、「信じてみたい」という感じだったと思います。
その3ヶ月後、教会で知り合ったクリスチャンの女友達に誘われ、2泊3日のある超教派の団体のリトリートに参加しました。そこでの、一日目の晩には「とりなしの祈り」の時間がありました。当時やっと内乱が終わりクメール・ルージュの暴虐が残した問題が山積みになっていたカンボジアのためにテーマ別にわかれてとりなし祈るということでした。
私は、「生きるためにやむなく売春している女性たちとその女性たちの子供のために祈る」というテーマを選びそのことを祈るグループに参加しました。当時の私は、人をとりなす祈りどころか、自分のためにさえ「祈る」ことなどしたことがない状態でした。内心困りながら、皆の祈りを聞いていると、沢山の見知らぬ母子の絵が頭に浮かんできました。どこへも行き場がなく、エイズや性病などを抱え、更に人からも嫌われ差別を受けて心身ともにズタズタになっている人たちことが、彼らの気持ちまでわかるかのように浮かんできました。その時、その祈りのグループをリードしていた人が、「もし、あなたがベイビー・クリスチャンでも今、神様があなたに何かを語っているか、見せているなら、それを口に出して祈りなさい。」と言われました。その場にベイビー・クリスチャンは私しかいませんでしたから、私はすぐに自分のことだと思いました。言われたようにそのとき頭に浮かんでいた見知らぬ国カンボジアの母子のために祈りだすと、聖霊が働きもう止まらなくなり最後は泣きながら祈っていました。自分でない他の何かに突き動かされて祈ったことを私自身が一番よくわかっていましたので、祈った後も何が起こったのかわからずしばらくぼうっとしていたのを覚えています。
今、私は他の何人かの人たちと共に毎週金曜日の夜に教会のための祈りのミニチャーチの時間を持っていますが、「とりなしの祈り」と口にするたびに、よくあの日の私の人生での初めての「とりなしの祈り」のことを思い出します。そして、常に聖霊様にすべて任せて祈ることを決して忘れないようにしたいと考えます。 “― 私たちは、どのようにして祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8:26)”
「とりなしの祈り」を初めてした次の日に、私にとってそれまでの人生で最も不思議な忘れがたいことが起こりました。その日は賛美の時間の後にリーダーが「あなたは生きる神様です。どうかこの場にいらしてすべてを支配して下さい。あなたがいらっしゃるのを静まって待ちます。」というようなことを言いました。そして、賛美チームの演奏が小さくなりやがて完全に音が消えました。でも誰も何も言いません。ただ静寂に包まれています。私は居心地が悪くなって薄目を開けて見てみたら、全員が真剣に祈っていました。私は、「変なことを言うな、気持ち悪いな。カルトではないだろうな。でも山の中だからもう逃げられないな。」などと思いながらも、前の晩の不思議な祈りの時間を思い出しました。あれは確かに何か「よいもの」の力でした。そして、また思い直し「しょうがない。郷に入れば郷に従えだ。」と自分も祈ってみることにしました。
私はこう祈りました。「神様、私はあなたを信じる祈りをしましたが、ここの人たちが言うようにあなたが生きているとは信じられません。本当に生きているのなら、どうか私にわかるようにあらわれてください。そうでなければ信じられません。」― 5分ほどそのまま祈っていると、突然部屋に「何かすごいもの」が入ってきた気配を感じました。すぐに神様だとわかりました。それは本当に「聖なる」何かで、恐れ多くて、とても目を開ける勇気はありませんでした。私は本当にびっくりしてしまい、私の祈りはこう変わっていました。「神様、あなたが本当にいるのがわかりました! もう二度とあなたを疑いません、どうか存在を疑ったことを許して下さい。一生あなたを信じます!」
その後、私は自分の体から力が抜けるようになるのを感じて椅子に座っていることもできなくなり床に倒れてしまいました。その後に神様が私に見せてくれたものは、天国のビジョンでした。神様がなぜ天国のビジョンを見せてくれたか、それには理由があります。ノンクリスチャンの頃から私は「天国」という概念が大嫌いでした。私のそれまでの人生では自分の力ではどうにもならないひどい出来事が何回か起こり、私は信仰告白した後もこの世は不公平で、神様が人を公平に扱っているとは思っていませんでした。「ある人々は、クリスチャン・ホームで決して子供に暴力を振るったりしない親のもとで大切され、よいものだけを目にして育つからそういう概念があるのだ。でも自分を守るはずの保護者から虐待されたり捨てられたりした人は世を恨み、世を恨むから罪に陥り、天国には行けなくなるのだ。」と私は思っていました。最初のスタート地点が不公平なのになぜ裁かれるのか疑問を感じていたのです。「幸せな人生が与えられた人だけ、皆で集まって天国に行き、辛い人生を歩む不幸な人は地獄に行く可能性が高くなってしまうなら、そんな天国は不公平で嘘くさい。」とそれがその当時の私の考えでした。
でも、その日、神様は本当の天国がどのようなところかを私に教えてくれました。そこにはこの世で悲しんだ人の涙もちゃんと見逃さずに見ていて癒してくださる神様がいました。神様は辛くて流した一粒の涙も見逃されず、哀れんで癒してくださった結果、悲しみも苦悩は違う形に変化して、喜びと平安に変っていました。でもなくなって忘れ去られてしまうわけではなく、きちんとその辛かった人の労苦も天国にありました。神様は不公平ではなく、むしろそういう弱い者、虐げられた者を愛したいと大切に思っていてくださるとわかりました。この体験は、これからも一生私を支え続けるであろう私にとって最も大切な神様の愛を知る出来事になりました。 “― 「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」(ローマ14:11)”
私は、単に長い間ノンクリスチャンだっただけでなく、暴力を受けた経験があり、ショックで記憶が一部なくなるような体験をしました。以前は何度も死んでしまおうと思ったこともあります。クリスチャンになった今でもそういう過去の記憶がよみがえり辛くなると、「神様、もう充分です。」と思ってしまうことがあります。でも、そのたびに神様は私に、色々な方法で神様の計画を少しづつ語られます。
ある時、真夜中に泣いていると、“苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。(イザヤ54:11)”という御言葉が与えられました。その時携帯にメールが入ったので見てみると、ある姉妹から悩んでいることがあるので祈って欲しいとのことでした。何か不思議なタイミングを感じ、もう夜中の1時くらいでしたが嫌でなければ電話をくれるようにと返信しました。すると電話をくれたので話をしていると、頭の中に先ほどのイザヤ書の箇所がまた浮かんできました。そこで、その姉妹に聞いてみると、彼女は私と似たような辛い経験がある人でした。
神様は、同時に二人にその御言葉を与えてくださいました。ひとりひとりに与えることもできたでしょうが、お互いのためにお互いを遣わしてくださいました。傷があるものだからこそ、他の傷ついた者を理解し励ますことができることもあるのだと神様は教えてくださいました。神様は、そのように何度も何度も、私が最も自信のない部分、セルフ・イメージに傷のある部分に触れ、そこを癒しながらむしろそれを用いてくださっています。そのような経験を通して、自分が癒され、弱い部分や、過去の辛い体験ですら、他の人の救いのために用いられることを、自分でもだんだん素直に喜ぶことができるようになってきました。
どうかこれを読んでくださっている方で、ご自分にまだ癒されていない傷があると感じる方は、どうかその傷を神様にとり扱ってもらうように祈ってみてください。神様が他の傷ついた人のために、よいことのために自分を用いてくださるときに、私たちは更に深い自分自身の癒しをも体験します。自分の傷つけられたセルフ・イメージを回復する体験をします。神様は何も無駄にされないのです。神様にあってはすべてが益とされるのです。 “神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)”
今も、私の周りには何人かの癒しを切望している人々がいます。皆それぞれに苦しんでいて、時には希望がないように感じてしまうそうです。あまりにも現実が過酷で、福音は聞いていてもそれが実現するとは信じられず苦しんでいます。神様が、彼らひとりひとりの傷に触れ、彼らが癒された時に、そのひとりひとりの証が他の人に福音を伝える力になって欲しいと心から願います。ものすごく傷ついた人、ものすごく大変なところを通っている人にはその辛い分だけ神様が働いて恵みを与えてくださると信じます。 “しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(コリントU12:9)”
最後にこれを読んでくださっている方に、お祈りのリクエストをお願いしたいのです。上に書いた傷ついた人たちに、また私たちの教会全体にも聖霊のバプテスマが与えられるようにお祈りしてもらいたいのです。
私たちは聖書の御言葉に従ってそれを信じて生きるべき者ですが、それを実践するのは時に大変なことです。特に、現実的に今大きな問題を抱えているクリスチャンにとっては、聖書の御言葉よりも、サタンが囁く「お前のような者はいつまでたってもダメだ」「こんなひどい傷や病が癒されるわけがない」という惑わしのほうが本当に思えてしまいます。彼らが、サタンの欺きの方により近い現実に直面しているからです。神様の約束を信じ続けるためにも聖霊様の強い力が彼らの弱さの上に現れる「現実の体験」がどうしても必要なのです。どうかお願いです。彼らが、私たちが、教会が、聖霊のバプテスマを受けられるように祈ってください。受けるまで祈りつづけてください。それによって、私たちがもっと深く神様の奥義を知ることができるように、もっと神様を伝えることができるように、もっと聖霊に満たされ、もっとイエス様に似た愛が持てるようになるように。 “しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)”
私のような者の書いたものを最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます! 皆さんのそれぞれに神様が与えられた召しが明確になり、あなたにしかできないミニストリーを神様が導いて実現させてくださいますように。そのための助け、必要がすべて神様の御力により与えられ、皆さんの霊がいつも神様の愛と平安の霊と共にありますように。皆さんの弱いところに聖霊が満ちて、むしろその弱さの中に神様の栄光を見ることができますように。悲しみが喜びへと変わり、その体験が福音を述べ伝える大きな力となりますように。私たちの主、愛するイエス・キリストの尊いお名前によってお祈りします。アーメン!